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2009年5月2日、日本テレビ「ぶらり途中下車の旅・京浜東北線沿線」の中で、
川口駅からレポーターが歩き、荒川土手でUコンを楽しんでいる方の紹介があ
りました。出演された方は、Uコン競技会で有名な、山田氏、原氏他仲間の方々
でした。
その中で昔はUコンが盛んだった時期があった・・・との紹介があり、その当時
の写真からその様子を放映する内容でした。その写真として、
私のWEBに掲載の「1969年4月6日 第12回関東Uコン初心者競技大会」
使われました。
下段にその写真がありますのでご覧ください。放送をご覧になった方であれば
お分かりになるかもしれません。

このコーナーは、このwebページを主宰する筆者のプロフィールを紹介するページです


2002年7月最新オリジナル機「michi07」
  神奈川県川崎市に生まれ、自宅そばを多摩川が流れる環境から、小学生の頃から多摩川河川敷でラジコンを楽しむ人々の様子をいつも興味をもって見ていました。

昭和39年頃(1964年東京オリンピックの頃)には、シングルボタン打ちのエスケープを搭載したラジコン機を目にするようになり、毎週日曜日にはマニアの大人の集まるところで1日を過ごしていました。そのころ、オールドマニアには懐かしい、多摩川の「ガス橋」付近に集まる、今、思えば日本のトップクラスのラジコンマニアの方々が10チャンネルから12チャンネルほどのリードマルチメカで優雅に飛行させる様子に惹かれたものでした。当時は、エレベーターがコントロールできることは驚きだったのです。

最近(2003年12月)わかったことですが、ガス橋で楽しんでいた「ガス橋ノーテンクラブ」の元は、東京の池上に本拠地を置く「ノーテンクラブ」だったそうです。このノーテンクラブの許可を受けて「ガス橋」を頭に付けたそうです。このガス橋という橋の名前の由来は、元々東京と川崎間にガス管を渡すためのものであり、ガス管がメインでその上に人が通れるだけの橋がありました。しかし、だんだんと交通が発達し橋が大きくなり今では大きな橋の下にガス管が通っています。この橋は今でも「ガス橋」と呼ばれています。私は、そのガス橋ノーテンクラブの方々のフライトを目の当たりにしていたわけです。日本の中でもラジコンの初期のベテランの集まりだったわけで、子ども心をワクワクさせるには十分過ぎるほどのグループだったわけです。

下の写真は、1966年冬の頃のガス橋の下流の川崎側で撮影したものです。この当時、この機体を持ってきていた方々はトラックの荷台に載せてきたことを覚えています。多摩川の河川敷は、写真でもわかるように平らになっているだけで、広々としていたものです。野球をやってもラジコンをやってもどこからも苦情もなくのんびりしたものでした。この写真を撮るために高価なカメラを持参し撮ったものです。この頃の私にはラジコンを入手することは不可能でしたので、この写真を眺めてはラジコンへの思いを馳せていたのです。私にとって大事な写真でしたので今でもアルバムに残っていたのです。今思えばもっとたくさん撮影しておけばよかったと思っています。

         

      昭和41年(1966年)にENYA15Ⅲを購入し、Uコンを始めました。初めて製作した機体は木村模型から発売されていた「15トーラス」キット(1,000円位。当時は、少年マガジンが40円程度だったと思います)と同時にコピー機も製作。当時は材料だけを購入するとキットの半額程度で製作できたものです。
丸子橋や川崎球場で開催されるスタント競技に何回となく出場してきました。
(私は、どこにいるかわかりますか?)
  
 

       

  ぶらり途中下車の旅・京浜東北線沿線」の中では、下記の2枚の写真が放映されました。

        

     この大会には、レッドイーグルジュニア(キットではなく、設計図からの自作)で出場しました
    
  
    上記の写真は、1969年4月6日 第12回関東Uコン初心者競技大会にて

これは、湘南電車がすぐ横を通る大船の空き地で開催されたものです。当時は、小中学生のUコン熱は盛んで私の地域の友人とともに6人ほどで参加しました。出場種目は、風船割で1周目にして1個を割りましたが、その後にすぐにエンジンストップとなり、終了してしまいました。この時は、エンジンスタート時にプラグヒートは2ボルトバッテリー(鉛蓄電池)を使用していたので、1,5ボルトの白金プラグでは、切れてしまうため、間にニクロム線を入れてボルトダウンさせていました。この低下量が微妙なため、スタートの確実性を狙って2ボルト用のニクロムプラグを使用しました。確かにスタートは、順調にいったのですが、熱量が白金に比べて低いものですから、ニードルの絞りが甘かったため、プスプスとかぶってしまい、エンストとなったのです。このときのことは、残念で今でも鮮明に覚えています。
また、当時は、マフラーを付けることが珍しい時代でもありましたし、純正のマフラーは高価でもあり、エンジンとは別購入になっていました。そのため、薄い金属の組み立て式のサードパーティ品(タイガー製かも・・・?)を装着しています。
 

    下の写真が69年夏号のUコン技術誌に掲載された当日の紹介です。    私が風船割りに挑戦している様子が紹介されました。記念の1枚です。

     
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   下の写真は、1969年11月9日 第19回模型飛行機競技会です。
    会場は、多摩川の丸子橋です。今は、この丸い特徴のある丸子橋も平成13年、2002年に新しい橋に生まれ変わりました。
丸子橋と言えば昨年の夏、あのアザラシの「タマチャン」が最初に現れたところです。
 レッドイーグルと私。後方の橋は東海道新幹線の橋です。


       

  下の写真の左から4人目の友人は、現在グライダーの世界では有名な「辻 啓一」氏です。
   私の中学の同窓生です。私も彼も小さい頃から模型づくりが好きだったのです。


      

   本大会では、スタントの部に出場し、4位に入賞しました。(この時は、もちろん高価な白金プラグ「ENYA-No.3」を使用)
   この写真は、69年冬号のUコン技術誌に掲載されました。


         

  この写真が69年冬号のUコン技術誌に掲載されたものです。右の写真はその時の表紙です。

      

  本誌には見開きで掲載されました。

        

 その後、OSのS35がスタント用として発表になり、それに合わせた機体をUコン技術誌にアメリカの機体として掲載された
「サンダーバード」を自作しました。この機体では、読売ランドで盛大に開催された大会に参加しました。記憶では、サンダー
バードを始め、「ノーブラー」(この機体を知っている方は、かなりのマニア?)などがたくさん集まり、Uコン全盛を肌で感じ
ました。


        

   昭和42年(1967年)に中古のリードマルチ10チャンネル(東京電子製)サーボは加藤無線飛行機製(MK製)
搭載機「パイロット エース」ENYA19搭載を2万円で譲り受け、初めてラジコンを楽しみました。ラジコンを手にする
こと自体が大変貴重な体験で、毎日、部屋で機体を眺めることだけで大満足の日々でした。
 この頃は、Uコンとラジコンの両方を楽しんでいました。


    

  この後に製作したのが、パイロットのファイターN200でした。これにUコンで使用していたOSのS35を搭載しました。
ラダーは調整のために付いているだけでサーボには接続していませんでした。リードマルチで背面飛行ができたことが
印象に残っています。絹張りの全塗装でした。胴体上面はグリーンのメタリックでグリーンの塗料にアルミ粉を混ぜて、
自転車の空気入れのような手押しのスプレーで吹き付けました。エルロンはやはりブルーのメタリックで同様な方法で
吹き付けました。


        

    昭和45年(1970年)にKOプロポの普及版が登場し、購入しました。(42,500円でした。この頃アルバイトが1日1,000円程度の時代です。現在アルバイトで1日働けば8000円くらいです。ですから、これを40日分となると32万円くらいのプロポとなるわけです)このプロポでは、比例制御と言われた「プロポーショナル」の動作に感動したものです。
非常に動作が安定しており、かなり1台を使い込んだため、ポテンショメータが消耗し、その交換に直接日暮里の会社まで持ち込みました。そのとき、KOプロポの近藤社長がスバル360(だと思います・・)で鶯谷駅まで迎えに来てくださり感動しました。まだ、3C(カー、クーラー、カラーテレビ)に憧れる時代でしたので、自家用車を持っていることが珍しかった時代でした。
近藤社長さんの製品にかける熱い思いを楽しく聞いたものです。修理は社長さんと談笑している内に完了し、持参して帰宅したことが印象的でした。その後もさらに使用し、今も保存してあります。このプロポが私をラジコンの虜にしたと感じています。
この頃は、バルサキットの製作に意欲を燃やし、工藤プロダクト製アトラスシリーズを片端から製作していました。
下の写真は、アトラス ラッキーです。プロポはKOデジエースです。
 
 

        

  昭和49年(1974年)に初めてオリジナル機を製作しました。機体名は、「ソフィア」。当時としては大型の40クラス機でした。
このソフィアが74年3月号のラジコン技術誌の特集として掲載され、それ以降数々のオリジナル機を発表してきました。
下の写真がソフィアです。OS40RCを搭載しています。


        

   私の製作物は、エアプレーンが中心ですが、プロペラカー、ホバークラフトなども手がけたことがあります。
平成8年(1996年)7月には、電波実験社のご好意により、全ページを一人で企画構成した「初歩のラジコン飛行機」を臨時増刊として発表しました。これは、私の今までのラジコンライフの一区切りとして私にとっても意義ある出版でした。
その後、オリジナル機を発表するたびに、読者からの反響があり、いくらかでもマニアの支援ができればと考え、設計図や胴枠を提供してきました。
私のオリジナル機の図面やパーツなどを注文してくださった方は、数百名にのぼり、オリジナル機の開発者としてはうれしい限りです。
このような状況から、現在も飛行中の機体が数多く見受けられます。初めて伺うフライト場でも初対面の方が気軽に声をかけてくださることが何より楽しみです。
最近では、今までのつたない経験からの紹介ではありますが、機体製作の「ワンポイントアドバイス」をラジコン技術に連載させていただいていることが私のラジコンライフの一つとなり、楽しみでもあります。

  

 

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